興福寺 東金堂

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奈良興福寺にはもともと3つの金堂があり、東金堂は中金堂の東側に位置していたことが名前の由来となっています。
東金堂は現在の興福寺境内の東側、最も目立つ五重塔のすぐ隣にあり、探すのに苦労することはありません。

東金堂は神亀3年(726年)、聖武天皇が元正天皇の病気回復を願って造立された薬師三尊を安置する堂として創建されました。
しかし、創建以来6度も消失しており、現在の東金堂は応永22年(1415年)に再建されました。
寄棟造り、本瓦葺といった形式、規模ともに天平時代のお堂に準じて造られており、室町時代の再建ながら、現在の東金堂も三手先斗栱で、荘厳な建物となっています。
この東金堂と五重塔は、室町時代まで回廊で囲まれていました。
東金堂は聖武天皇、五重塔は光明皇后が創建したことから、当時は夫婦和合の聖域とされていました。
創建以来、薬師如来や文殊菩薩への信仰が厚く、4月25日の文殊会、節分の追儺会といった大祭が開催されています。

そんな、東金堂に深く関わっている仏像が山田寺仏頭です。
治承4年(1180年)の兵火による焼失後の文治3年、興福寺の僧兵は飛鳥の山田寺講堂本尊の薬師三尊像を強奪して、東金堂の本尊にしました。
東金堂はその後応永18年(1411年)の落雷火災により、お堂が消失して薬師三尊像の胴体は失われましたが、頭部に傷を負った仏頭が昭和12年のお堂修理の際、須弥壇の下より発見されました。
現在、仏頭は白鳳時代を代表する仏像として、興福寺国宝館に展示されています(山田寺仏頭)。

〔東金堂堂内に安置されている仏像〕
(1)薬師如来坐像
「浄瑠璃光世界」の教主として、人々の病気回復を願って神亀3年(726年)に造立された本尊薬師如来坐像は火災により焼失し、現在の像は応永22年(1415年)に再興された室町時代の作品です。
通肩の法衣に包まれた薬師如来坐像は、お堂の中でひときわ大きく、格調高さとともに安らぎを感じます。
(2)日光菩薩像・月光菩薩像
薬師如来の脇侍である日光菩薩像・月光菩薩像は、応永の火災の際に救出されたものです。
文治3年(1187年)に山田寺から移されたとされる奈良時代の作品と言われています。
(3)木造四天王立像
東金堂の四隅に安置される四天王立像は、平安時代初期の作品です。
頭から足元の邪鬼、岩座まで一本の木材で彫りおこされています。
(4)木造維摩居士坐像(ゆいまこじざぞう)
維摩は「維摩経」に主人公として登場する伝説上の人物です。
本尊薬師如来の向かって左に安置される維摩居士坐像は、鎌倉時代の建久7年(1196年)に、仏師定慶が53日で彫り上げ、幸円が50日で彩色を施したと言われています。
本尊薬師如来の向かって左に安置される文殊菩薩像と合わせて、「維摩経」に説かれる文殊と維摩の問答の場面が表現されています。
(5)木造文殊菩薩坐像
「三人寄れば文殊の知恵」とあるように、文殊菩薩は知恵の仏様として知られ、合格祈願、学業増進祈願として多くの人から信仰されています。
東金堂の文殊菩薩坐像は、本尊である薬師如来の向かって右に安置され、維摩居士坐像と対を成しています。
作者は不明ですが、鎌倉時代初期の定慶の作品と言われています。
(5)木造十二神将立像
薬師如来を家来である十二神将立像は、薬師如来信仰者を病から守る神です。
建永2年頃の作品で、鎌倉時代彫刻の特長である躍動的な姿態が、他の仏像との対比で印象的です。


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